雨運の悪い男
雨が降ってきた。
それも買い物をした帰り道に。こんなことなら、スーパーに寄らなければ良かった。けれど、今日は味噌の特売日。……本当に、今日買わなければならなかったか? 前に味噌汁を作ったのはいつだったろう。味噌のストックが無かったのは確かだけれど、実家にいた頃のように頻繁には使わない。今日じゃなくても、良かったかな。
自然とため息が零れた。あれこれ考え事をしているうちに、雨脚は強くなっていく。服や髪は、あっという間にじめじめとしはじめた。そっと見下ろしたレジ袋にも、沢山の水滴がついている。この様子では、袋の中身にも水が入っていることだろう。
このまま走って帰るか、近くのコンビニの軒下で雨が過ぎるのを待つか。おそらく、この雨は通り雨ではない。雨宿りはするだけ無駄。かといって、この歳になって濡れ鼠になりながら帰るのも嫌だ。
大人しく、傘を買え。そう思う一方で、ビニール傘を増やしたくないと細やかな駄々を捏ねる自分もいる。
湿っているという程度だった髪は、濡れて束を作り始めた。服もなんだか重さを増した気がする。早足で地面を踏む靴は、ぎゅ、ぎゅ、とたっぷりと水を吸った音を立てた。
「あー……」
濡れ鼠になりたくない。そう思ったばかりだというのに、今の自分は間違いなく「濡れ鼠」になっている。そう気付くと同時に、急いで帰るのが馬鹿らしくなってきた。どうせここまで濡れてしまったのだ、今更傘を買ったって意味はない。この雨の中、傘もささずに歩いていたら目立つだろうか。一気に人通りが減ったのを思うと、案外目立たないのでは。
ほとんど諦めがついてしまって、忙しなく動かしていた脚を緩めた。相変わらず靴はがぽがぽと水の音を鳴らす。帰ったら、ちゃんと乾かさなくては。いやあ、今日、新しい靴を下ろさなくて良かった。
開き直って雨に打たれていると、商店街に差し掛かる。アーケードの無い商店街、当然のように通りは雨で濡れていた。昔ながらの精肉店の前を通りがかると、売り子のおばちゃんのギョッとした顔が見える。それにつられて、もう一人の客もこちらを振り返った。……見られる前に、さっさと行こう。目立たない、と思ったのにな。他の店からも、奇異の目を向けられるのだろうか。それは厄介だ。
「三ツ谷?」
「ん?」
突如、聞き馴染んだ声がした。反射のように振り返ると、ビニール傘を広げた見知った男が立っている。伸びた金髪、目元には火傷痕。ちょうど、通り過ぎたばかりの精肉店の扉は開いていて、おばちゃんがこちらを覗いていた。
こっちを振り返ってきた客は、イヌピーだったのか。手元には、サガミ精肉店と書かれた袋を提げている。D&Dは今から昼休憩らしい。
「イヌピーじゃん、どしたの」
「どうしたはこっちの台詞だ。ずぶ濡れじゃん」
「傘持ってなくて」
「あー」
ここで「珍しい」と言ってこないのがイヌピーの良いところだと思う。単に、知り合って日が浅いというせいもあるのかもしれないが。
ちら、と一度後ろを振り返ったイヌピーは、肉屋から顔をのぞかせるおばちゃんにぎこちなく会釈をする。その瞬間、彼女はニコッと手を振った。
「……知り合い?」
「顔見知り。よく飯買いに来てっから、顔覚えられた」
「あー、そういう」
隣にやってきたイヌピーはしれっとオレを傘に入れてくれる。大きいビニール傘だが、流石に男二人で入るものではない。イヌピーの肩は早速濡れ始めていた。とっくにオレは濡れているから、気にしなくたっていいものを。
「てか、三ツ谷んことも覚えてるぞ、サガミさん」
「マジ?」
「ドラケンの友達じゃないかって言われてさ、振り返ったらマジで三ツ谷いるし、傘貸してやんなとか言われるし」
「……なんかごめん」
「いいよ、今日暇だし」
それは良いのか? 客商売で暇と言われると、複雑な心地になってしまう。しかし、ケロッとした顔を見る限り、変に気を遣う必要もないように思える。どういう経営状況なのか、詳しく聞いたことはないが、やりくりはできているのだろう。なにより、顔を合わせる度、ドラケンは楽しそうにしているし。
ゆったりと歩き始めるイヌピーにつられて、商店街を進んでいく。行先はD&Dで間違いないだろう。自分の家がある方向もそっち。店まで着いたら、この傘を借りられないかな。あとで差し入れと一緒に返すからさ。
「なあ、」
「どうせだし」
声を掛けると同時に、イヌピーもこっちを見下ろしてきた。重なった声に、二人で口を噤む。ぱち、ぱち、と瞼が瞬きする度、存外くっきりとしている睫毛が揺れた。
先に話すよう小首を傾げると、はく、と薄い唇が動いた。それから、目線がゆらりと泳ぐ。その目は、空から地面まで雨粒を追いかけたところで、オレを捉え直した。
「……どうせだし、雨止むまで、店寄ってけよ」
「いや、さすがに迷惑だろ」
「この雨じゃ飛び込みの客はいねーだろうし、平気平気」
それを理由にして良いのか。えー、と遠慮を示す声を上げてみるが、イヌピーに響いているとも思えない。
そうこうしているうちに、店が見えてきてしまった。おそらく、イヌピーの中で、オレは店に寄ることが確定している。そりゃあ、今日はオフだ。仕事抜け出てスーパーに出向いたわけじゃない。家に帰るだけ。寄る時間くらいある。だが、店側としてはどうなんだ。客でもないのに、営業時間にたむろされたら、困るのでは?
……D&Dなら、アリなのか。思い返してみれば、あの店は歴代黒龍関係者の御用達。オレが客として店に行った時も、誰かしらが遊びに来ている印象がある。なかなかの頻度で見かけるのは、イヌピーが「ワカクン」と慕う男。あの、ヤバイ男である。なんでアンタみたいな伝説がしれっといるんだよ。ギョッとしていたら「食う?」と土産と思しきメンチカツをくれた。これが、サガミ精肉店との出会いだ。話が逸れた。
「それに、」
ついに店の前に辿り着き、イヌピーは扉に手を掛ける。しかし、開けはせず、一度こちらを振り返った。
「今日の三ツ谷見たら、あいつはしゃぐぜ?」
どういうこと? ふ、と口の片方だけ釣り上げて見せたイヌピーは、オレの疑問に答えることなくガラス扉を開けた。
「弁当買って来たぞ」
「おー、さんきゅ……」
入ると同時に閉じた傘は、水を払うことなく入口すぐの傘立てに突っ込まれる。垂れた雨水は早速床に滲み始めていた。
つかつかとイヌピーは中に入っていくが、自分も入って良いのだろうか。つい、マットの上で立ち呆けてしまう。傘と同じくらいに、自分からは雫が落ちている。店の中をあちこち濡らすのは忍びない。せめてタオルを借りられないだろうか。
「は、三ツ谷?」
「おう、拾った」
それだけ告げると、イヌピーは奥の休憩室に入ってしまう。
そっと視線を動かすと、オレを食い気味に眺めるドラケンと目が合った。その顔には、大きく「意外」と書いてある。やんちゃしている時分ならまだしも、スーパーの帰り道なんてタイミングで濡れたからだろう。ああもう、視線がうるさい。雨が降る前に帰るつもりだったんだよ。だから、傘を持たなかったんだ。第一、特売日なんて混雑する日に傘なんて荷物、持っていけるか。
「雨宿りしてけって、イヌピーが」
「あー……、そう、そうか」
すぐにからかう表情に変わると思ったのだが、何故かドラケンは明後日を見ている。確かに、オレのことは目に映していると思うのだ。頭のてっぺんから、足の先まで、しっかりと視線が突き刺さる感覚がするから。だが、どうもオレのガワを見ている。そんなにびしょ濡れになったオレを見るのが面白いのか。だったらいっそ「派手に濡れたなァ!」と笑ってくれればいいものを。
居心地が悪くなってきて、きゅ、と左手で薄手のシャツの裾を掴んだ。それだけで、布から水が滲み出る。試しに絞るように握ると、案の定、手の中にじゅわりと水が溢れた。
タオル、借りよう。貸してもらおう。
「ごめん、タオル貸してほしいんだけど」
「や、着替え貸すワ」
「え、タオルでいいって」
「よくねえ。とりあえず奥行ってろ、オレもすぐ行くから」
ふら、とオレの傍までやってきたドラケンは、促すように背中を押した。濡れたシャツ越しに、手の平の熱が染みる。自分が思うより、この体は冷えているのかもしれない。
こっそりドラケンを盗み見ると、やはりここじゃないどこかを見ている。口元に手を当てて、何か考え事をしているみたいだった。イヌピーめ、厄介なもん連れて来やがって。そう思っている気がしてならない。身内には優しい男だから、着替えを貸すと言ってくれたのだろうが、長居はしないほうが良さそうだ。こいつらの昼休憩に合わせて帰ることにしよう。
ぎゅ、ぎゅ、と濡れた足音を立てながら、奥の休憩室の敷居を跨いだ。男二人で使っているにしては片付いている。どちらも、物を多く置く性分ではないから、この綺麗さを保っているのだろう。
「座れば?」
濡れた服のまま座るわけにもいかず、ぼーっと立っていると、イヌピーが給湯室から現れた。右手にはヤカン、左手には即席麺を持っている。
「……ソファ、濡れるだろ」
「じゃあ、そっち、パイプ椅子なら気にしなくていいだろ」
「あ、それなら、ウン」
カップ麺を持ったほうの手で、イヌピーが指さした先には、青いパイプ椅子がある。確かに、これならソファほど気にしなくて良い。すとんと尻をつくと、濡れたズボンの冷たさがじんわりと伝って来た。
視界では、テキパキとイヌピーが昼の準備をしていく。といっても、ローテーブルに弁当を並べて、自分のカップ麺にお湯を注ぐだけだが。それから、のっそりと立ち上がったかと思うと、戸棚に向かう。確かあの棚にはインスタントコーヒーが置いてあったはず。案の定、コーヒーの香りが鼻孔を掠めた。
「三ツ谷ぁ、コーヒー、甘いのと、すごく甘いのと、とにかく甘いの、どれがいい」
「な、えっ、いいよそんな。てか全部甘いの?」
「オレもドラケンも甘いの飲まねえから減らねんだ」
「……何あんの」
座ったばかりの腰を持ちあげて、膝の上にあったレジ袋を椅子に置いた。それからイヌピーの隣に向かう。手元には、やたら立派な箱に入ったスティックタイプのインスタントコーヒーがあった。貰い物らしいソレは、見事なまでに普通のコーヒーからなくなっている。残っているのは、甘みの強いフレーバーばかり。
「カフェモカかな」
「とびきり甘いぞ」
「知ってる」
慣れた手つきで封を切ったイヌピーは、三つあるマグカップのうち、白いソレにオレの選んだカフェモカを作ってくれる。混ぜるだけなのに、ふわりと泡が浮かんでいた。最近のインスタント飲料ってすごいよな。
手渡されたマグカップは酷く熱い。取っ手じゃなかったら、掴んでいられなかったかもしれない。飲み頃になるまで何度も息を吐きかけて冷ましていると、隣ではイヌピーが平然と熱湯で淹れたコーヒーを啜りだした。しかも、マグカップは湯飲みのような持ち方をされている。指先の皮膚、どうなってんの。整備士って、手の皮膚厚くなるもんなんかな。
ドラケンの手も。そう考えたところで、背中を押された熱を思い出す。シャツ越しだから、はっきりとはわからなかった。今度、手を触らせてくれと言ったら、なんて反応を返されるだろう。ちょっと引かれそう。で、何企んでんだって言いながら、結局手を貸してくれるのだ。
舐めるように口に含んだカフェモカは、まだ、熱い。ちり、と舌が焼けた。
「……なんか、さ」
「ん」
「ドラケン、困った顔してたね」
「はぁ? どこがだよ、むしろ念願叶って喜んでる顔してたろ」
「念願?」
舌先は、ちりちりと焼けるような痺れを持つ。前歯でやんわりと噛んで痛みを誤魔化しつつ、イヌピーを見やった。
傘に入れてもらったときも思ったが、意外と、背、あるよな。出会ってすぐは大寿くんの近くにいたし、今はドラケンの隣で見かけることが多いから、背が高いという印象にはならなかったが、オレよりずっと大きい。十センチくらい、大きかったりして。
ちょうど、オレの目線の高さあたりにある唇が、歪んだ。ニヤリ、悪い笑みを作る。
「―― 好きな奴に、自分の服、着せたいって念願」
顰められた声に、エッと悲鳴が零れかけた。どうにか動揺を喉元に止める。ぐるぐると思考の糸が絡まり始めた。あまりの落ち着かなさにマグカップを傾けると、再び焼けるような熱さが舌に広がる。熱い。あっつい。
慎重に、今度こそ火傷してなるものかと、水面に息を吹きかけた。薄く乗っている泡が、吐息に合わせて形を変える。ふ、と息で笑ったイヌピーは、ひたひたとソファに戻って行った。
そろそろ飲めるだろうか。カフェモカを覗き込んで、そっとマグカップに口を付ける。
しかし、飲むには至らない。
「待たせた、こっち」
「あ」
大きな手に、マグカップを奪われた。あんなに熱い側面を、平然とその手は掴んでいる。流れるようにその手はマグカップを棚に置き、代わりにオレの手首を掴んだ。ぐ、と引っ張られる。おかげで、数歩ばかりよろめいた。しかし、体はちゃんと、ドラケンのあとをついて行っている。
「ドラケーン、メンチと照り焼きチキン、どっち食う?」
「メンチ」
「チキンな」
「メンチつってんだろ!?」
ロッカーの置かれた小部屋に向かいがてら、ドラケンとイヌピーは大声でやり取りをする。あまりのトーンに、いっそう、頭の中がこんがらがってきた。
好きな奴って、どう、いう。
「ん、コレ着て」
「ぶ」
顔を上げるや否や、ぼふんと布の塊を押し付けられた。綿、綿、綿、これはレーヨン・アクリル・ポリエステル。それぞれの素材が脳裏を駆け抜けた後、ふわりと、重めのノートが響いてくる。目の前の男が、好んで使っている香水の匂いだ。オレもこの匂いは嫌いじゃない。だが、悲しいことに、自分には似合わないなと思う匂いでもある。
ぷは、と顔を挙げると、間髪入れずに頭に手を乗せられた。濡れた髪を撫でつけるように大きな手が動く。
「雨止んだら送ってく。……いいな?」
そんなことしなくていい。言い返したいところだが、この男の中ではもう送っていくと決めてしまって、覆りはしないだろう。なのに、尋ねるような言い方をしてくるのが気に食わない。
「……ウッス」
まあ、頷くしかできない自分も、どうかしているか。
もう一つ頭を撫でたドラケンは、オレを置いて休憩室に戻って行く。じ、とその背中を見送ってから、渋々濡れた衣服を脱ぎ捨てた。
休憩室に戻った瞬間、借りたズボンが下がったのは、ベルトを渡し忘れたドラケンのせいであって、オレは悪くない。絶対に。