初めまして

 昨日は、運よくスリーカードで勝てた。でも、一昨日はストレートでまんまと負けた。今日はどうだろう。ここ最近は、勝ち負けを交互に繰り返しているから、手が疲れる日かもしれない。
 そう思うと、あそこに戻りたくない。せめて、飯を食う時間だけでも、外にいたい。と言っても、この時間はセーアンカの連中の見回りと被る。捕まると厄介だ。
「お」
 あてもなく歩いていると、衝立で覆われた工事現場が見えてくる。ぼんやりと光っているのは自動販売機だ。万が一、見回りが通りかかっても、ここなら上手く身を隠せそう。
 ここにしよう。
 どかりと座り込んで、袋の中からカルビ丼を取り出した。できたての熱さはもうない。かといって、冷たく、硬くなっているわけでもない。コンビニの菓子パンよりウマイのは確かだ。
 左手で器を持ちながら、割り箸を横向きに咥える。
 すぐに、ガシャン。箸が割れるにしては大袈裟な音が聞こえた。
「ん?」
 割り箸は唇の間に一本。右手の指の間に一本。溝にそって綺麗に割れている。じゃあ、どうしてあんな喧しい音がしたんだ。まるで、鉄骨が崩れたみたいな。缶のゴミ箱が蹴り飛ばされたみたいな。古い脚立を雑に置いたときみたいな。
 顔を上げると、そこにはまさしく古い脚立が置かれたところだった。
(誰だ)
 大人だったら、まずい。
 そう思ったのに、視界に飛び込んできたのは自分と同じか、いくらか低いくらいの背丈。ぼさぼさの髪で、けれど色は黒くない。染めているのだろうか。だったら、自分と一緒。まあ、こっちは金髪であっちは銀髪なのだけれど。
 そいつはこちらを振り返ることなく、カシャカシャと何かを振っている。スプレー缶だ。
 この時間・あの髪・その動き。こいつ、やっぱりオレと一緒だ。不良だ。
 まだ夜中と言うには早いけれど、とっぷりと日が暮れてから同じくらいの歳の奴を見かけるのは初めて。無性に胸が弾む。口を開けたら、すぐに声を掛けてしまいそうだ。掛けてえな。オマエどこ小、なんてナマエ、今からなにすんの。
 咥えていたほうの箸も、右手でまとめた。
「なあ、」
 ……かけた、声は、スプレー缶の音でかき消されたらしかった。
 まっさらな壁。うっすらと何かが書かれた跡がないこともないが、消されてしまって絵と認識することはできない。そんな壁、いっぱいに、新たな線が引かれていく。次々とそのインクは噴きつけられ、味気ない壁が飾られていく。下書きなんてしていない。なのに、そいつの腕は滑らかに動いた。たまに止まったかと思えば、スタート位置を変えて次の線を描く。背伸びして、届かない、と判断するやいなや、引っ張り出した脚立に登って高いところにも描いていく。
 一切の、迷いのない動き。
(すげぇ)
 こんなガキでも、ストリートアートってできるんだ。
 口は開いているのに、なにも言葉が出てこない。ただただ、そいつが描く線に、魅入ってしまった。
(なにができるんだろ)
 ほう、と息を吐いたって、そいつは壁を向いたまま。インクの帯は渦巻を作り、続けてゆったりとした曲線を描く。太い部分もあれば、細い部分もある。あ、ここ、口っぽい。ガッて口を開けている、……蛇? いや、手みたいなのも描き始めた。手があるなら、蛇じゃない。蛇じゃない、なら、なんだ。
 あれこれ考えている間にも、線は書き足されていく。つまらない、ただの壁が、そいつの作品に。
 ヒュッと息を呑むと同時に、くぅ、と腹が音を鳴らす。
「っ!」
 咄嗟に箸を持った手で腹を押さえた。聞こえたろうか。だとしたら、かなり、すごく、恥ずい。片やストリートアートをしているのに、こっちは腹をすかして座り込んでいるなんて。
 ぐ、と奥歯を噛みしめながら、一口も減っていないカルビ丼を見下ろした。あいつ、振り返ってないといいな。や、顔は見てみたいから、こっち見てても良いんだけど。……何も、声を掛けてこないということは、気付いていない?
 盗み見るように顔を上げると、まだそいつはスプレーを走らせていた。
 良かったような、残念なような。
 かすかなシンナー臭を嗅ぎながら、箸を持ち直した。すっかり冷めたカルビ丼を、ぽいと口に放り込む。それなりに、ウマい。とびっきりウマいかと言うと、そうでもない。給食のハムカツみたいなナニかよりはウマくて、カレーよりマズい。
 こっそり不貞腐れながら噛み締めていると、スプレーを吹き付ける音が短くなってきた。そろそろ完成だろうか。目を向けると、シュ、プシュ、と点や丸を描いている。
 あ、これって、龍、か?
 そう思うと、そういう風にしか見えない。龍、龍だ。きっと、これは、龍。オレの名前にもいる、世界で一番カッケーと思う伝説の生き物。龍。
 近所の彫師ンとこで見た、ギョロッとした目付きの龍も格好いいが、この龍も悪くない。むしろ、好きだ。シンプルなのに、目に焼き付いて離れない。
 この龍、欲しいな。ずっと、龍の刺青を入れたいと思っていた。入れるなら、これだ。これにしたい。腕か、足か、背中か。どこに入れよう。よく見えるところがいい。首? いや、襟で隠れちまう。この龍が、一番映えるのは、どこだろう。
 浮足立ってしまうが、その前に、本当にこれが龍なのか確かめないと。もし、龍じゃなかったら困る。自分の思い違いで、龍じゃない何かを墨にするなんて、笑えない。ちゃんと、確かめて、そんで、正しく龍だったなら、オレにくれねーか、と尋ねよう。よし、決めた。
 あれこれ逸る心を落ち着かせるように、もう一口カルビ丼を頬張った。
―― すげぇもんだな」
 早口になってねえよな。上ずってもねえよな。もぐもぐと口を動かしつつ、ビクッと肩を震わせたそいつがこちらを振り向くのを待つ。
 や、待てねえワ。
「何これ? 龍?」
 そこまで言ってしまったところで、ようやくこちらを振り向いた。どんな面をしているのやら。淡々と描いていたあたり、すまし顔をしているに違いない。と、思ったのに、そいつは、なぜか、迷子みたいな顔をしている。
 もしかして、こいつ、不良じゃない? 不良、ぽくない。でも、やってることは、不良。こんなかっけーモン描いといて、そういう反応するってどういうことだ。見られてると思わなかったって? オレのシャテーだって、そんな可愛い慌て方しねえぞ。
 動揺するそいつを見ていると、高揚も少しだけ落ち着いてくる。
 なんにせよ、取引をしないことには始まらない。
 オマエの龍に一目惚れしちまったから、オレにくれ、って。