独占色
そういえば、初めて家出した日もこんな空をしていたっけ。
吐き出した息に、ぼやり、紫煙が乗った。宙を踊るように浮かんで、数秒のときを経て空気に馴染んで消えていく。あの日の吐息は、もっとずっと早くに透明になったはず。もう、何年と前のことだから、だいぶ脚色の入った記憶だけれど。
燻ぶる火を視界の隅に留めつつ、煙草を口元へ引き寄せた。ゆっくりと、深呼吸するときのように空気を吸い込む。フィルターを通った空気が、唇を、舌を、喉を通り抜ける。細い煙が、肺を満たしていくイメージ。始めてソレを飲んだときは、何て痛くて苦しい嗜好品なんだろうと思ったものだ。いつの間に、常飲するようになってしまったのだろう。
大人になったということか。はてまた、大人になってしまったと言うべきか。
体いっぱいに冷え始めた空気を吸い込んだところで、ほう、丸く息を吐き出した。
階下の喧騒は遠く、その下を走る車の群れはさらに遠い。平日の、帰宅ラッシュともいえる時間だと言うのに、今日はやけに静かだ。どこかで事故でもあったのだろうか。通行止めが発生して、ここまで雑踏が到達していないとか。
窓ガラス一枚挟んだところから聞こえる夕方のニュースは、そんな交通情報を教えてはくれない。いつもどおり、どこどこで渋滞が発生していると喋るだけ。静かなのは、単なる偶然か。
「さむ、」
もう少し、とぬるい煙を取り込んだ。対照的に、足元が冷えてくる。いい加減、中に入らないと、風邪を引いてしまう。まして、こんな格好だ。そろそろ起きてくるだろう男に、叱られてしまう。
ちり、と、喉に心地良い痺れが走った。麦酒を飲み下すときとは、一味違った喉越し。煙が、また、肺を満たしていく。
「ンな恰好してるからだろーが」
「あ、起きた?」
「オマエが起きたのと同じくらいには起きてたよ」
背後から放られた、低く掠れた声。何が起きていた、だ。まさにたった今起きましたという声をしているくせに。こいつのことだ、オレが起きたということにはどうにか気付いたものの、意識はほとんど夢の世界にあったのだろう。
風邪を引かれたら困る。強引にでも、隣に引き寄せてしまいたい。けれど、体を動かすには睡魔を倒さなければならない。ぐるぐると欲を渦巻かせるそいつの姿が、自然と脳裏に浮かんだ。
肩ごしに振り返れば、ホラ、寝ぼけ眼の、ぼさぼさ頭。普段のギチッと結われた姿を思うと、まるで別人だ。
この男は、外に行くときにきちんと身だしなみを整える。なんなら、出かけないときでも、髪を結っていることが多い。長髪だから、結った方が楽、というせいもあるのかもしれない。だが、なにもしない・どこにも行かないというのなら、結わなくても良さそうなもん。けれど、こいつはちゃんと整えるのだ。前髪も作るし。……あと、セックスするときも。大体、結う。結われて、ベッドに乗り上げて、押し倒されると、あーもうオレの負け! って気分になってしまう。昨晩もそうだった。
さておき、今は、あちこち綻んだ姿をしている。髪と瞼はそのとおり。上は何も着ていなくて、下に履いているスエットは紐を結んでいないがために腰履きになっている。いやあ、だらしないな。にんまりと、顔が緩んでしまう。
「ったく、外出ンならちゃんと服着ろ」
「ベランダだし、いっかなって」
「よくねーわ、つかそれ、オレのじゃねーか」
「どう? 彼カーディガン。シャツのが良かった?」
「―― 三ツ谷、」
しっとりとした、濡れた声が鼓膜を震わす。
未明まですることしていたっていうのに、まだそんな声出るのか。あいにく、こっちは嗄れる寸前。精力的には枯れるでも良いか。なんにせよ、もう一回、なんてできやしない。
とはいえ、だ。求められたらあっけなく脚を開くのだろう。我が身のことながら、少し笑える。
ベランダに引っ掛けた灰皿は、オレが買ってきて、勝手に備え付けたもの。ドラケンに見つかった直後、げんなりと顔を顰められたのは、はて、何年前のことだったろう。就職してからの話だから、そう昔のことでもない。
そんな銀色に、煙草を押し付けた。灰が潰れて、小さなオレンジが揉み消される。そろそろ掃除しないと。でないと、家主である男がムッとしながら片付けなければならなくなる。
こんな見た目をしているが、ドラケンは煙草が嫌いだ。いや、正しくは、オレが吸っているのを好ましく思っていない、といったところか。だって、営んでいる店にも一応喫煙場所はあるし、飲みの席で喫煙者がそばにいても、平然としている。
ただ、近しい人間が吸っていると、別。副流煙がー、というよりかは、吸っているオレの健康状態を気にしてくれている。良い奴だ。本当に。良い奴過ぎて、オレのコレを辞めさせたい癖に、いざ言葉にして伝えてはこないくらい。言ってくれたら禁煙も考えるのに。……なんて言ったら、ドラケン、どんな顔すんのかな。
「ンな格好されっと、こっちも思うとこがあるんだワ」
「そりゃどーも」
「つーわけで、選べ」
「え?」
随分と、横柄な物言いをする。かつて、副総長をしていた頃のよう。あの頃だって、誰彼構わずきつい物言いをしていたわけではない。相手を確かめて、必要に応じて強い言葉を吐く。カッコ良かったなあ。一番最初に会った時も、やけにカッコ良い不良だと思ったけど、それからどんどん男前になっていくものだから、どこまで惚れさせれば気が済むんだと頭を抱えたっけ。
当時に比べたら、喧嘩の腕は鈍っているだろう。それでも、鍛えられた体は今なお健在だ。さらけ出される度、ほうっとため息を吐いてしまう。そういう時のオレの顔、好きって、言ってたな。あんまり「好き」と言葉にしない代わりに、顔が、瞳が、伝えてくれるから、好きだって。
「なんだよ」
「好きなほう、選べ。二つに一つだ」
ぐるりと体の向きを変える。あわせて、カーディガンの裾がふわりと広がった。ドラケンがゆったりと着れる大きさなだけあって、自分にとってはあまりにもオーバーサイズ。ボタンを全部閉めたら、ワンピースを着た心地になろう。不精して、一つ、二つしか引っかけていないのだけれど。あるべき着方をしないってのは、この服を作った人への冒涜かな。……制服ならまだしも、こういうアイテムなら許されるか。自分がデザインしたものなら、別に構わないと思うし。
ぼーっとしながらドラケンを眺めているうちに、腕が伸びてきた。抗うなんて真似はしない。ぐ、と、皮膚が硬くなった手の平に二の腕をとられた。握る強さは、まさに適。痛くもなければ、壊れ物を扱うふうでもない。当たり前だ、オレはふわふわと柔らかな女性ではない。歴とした男なのだから。
「大人しく部屋戻って飯食うのと、」
夕日が差した。秋の暮れ、冬が差し迫ってきている、決して赤くはない、柔らかな日。暖かそうなのに、空気のせいでひどく寒い。おかげで、掴まれた部分の熱が際立った。
「ここで、―― 抱き潰されるのと、どっちがいい?」
今から、再びこの男に、抱かれたら、寒さを忘れられるような熱を、感じられるだろうか?
疲労感が勝って、意識を飛ばすように眠ってしまいそうだ。
「……飯かなあ」
「なら中入れ」
引き寄せられるがままに、つっかけが両足から抜け落ちた。
ぼすんと雪崩れ込んだ胸板は、これぞ筋肉、あたたかい。ああもう、なんだこの一分の隙もない、鍛え上げられた体は。何度見ても、見惚れる。何度触れても、どきり、心臓が強張ってしまう。
「ドラケンが作ってくれんの?」
「……作ってもいーけど、オマエの飯より不味いぞ」
「そう? あの雑な肉野菜炒め結構好きだよ」
「ほめてねーだろ、それ」
「あはは、ほんとに好きだって。まーね、面倒だってなら外食してもいいし」
「や、外で食うのはナシ」
「え、珍しい」
「今日はナシ」
暖房のきいた室内。突然の暖かさに鳥肌が立つ。それだけ冷えていたということか。
ドラケンにひっついたまま顔を覗き込むと、すんとした真顔を返された。合わせて、長い腕がオレの背後の窓を閉める。外から入り込んでいた冷気が、ぴたっと止んだ。いっそう、部屋の暖かさが身体に沁みる。
「どうして」
「決まってんだろ」
さりげなく腰を支えてくれている手に下心は見えない。けれど、紳士的なさりげなさはない。万が一、膝が崩れても、尻もちをせずに済ませてくれそう。頼りになりすぎる。いうなれば、うーん、スポーツインストラクター? うわ、似合わねえ。
なんて、馬鹿なことを考えているうちに、とん、ドラケンの人差し指が首筋にあたった。一瞬の感覚。すぐに離れた指先は、自身の首元に矛先を変える。そして、とん。自分の首筋も一つ叩いた。白い肌に浮いた、色味が濃くなっているところを、叩いた。
「お互いキスマークつけて、そんで事後の色気駄々漏れさせてて、ンな状況で外行きたいか?」
「あ~、ね……」
「マー三ツ谷がー、どうしても行きたいっつーんなら、行ってもいーけど?」
「ん、エンリョ、します」
「そーしろ」
一つ笑うと、ドラケンはオレの頭をぐしゃりと掻きまわした。
吐息過多のハスキーボイス、首筋に浮いた鬱血痕。一応こちらを気遣って、腰やら背中を支えてくれる腕。極めつけは、こちらに向けられる、甘ったるく、蕩けた笑み。
そーね、こんな男を、大衆の面前に晒したくはねーワ。
色気づいた姿は、お互いが知っていればそれでいいのだから。