愛を頂戴

 目が合った。
 その瞬間に、唇を奪っていた。
 なぜこんなことをしているんだ。柔らかな唇に触れている間、頭の冷静な部分が考え込む。けれど、つい・とっさに・なんとなく、なんて漠然とした言葉しか出てこない。
 じゃあ、雰囲気に流されたのかというと、それも否。キスする空気ではなかった。そもそも、ここは自分の店で、今は三ツ谷に頼まれて愛機のメンテナンスをしていたところ。乗り始めて六年半。知り合いの先輩から譲ってもらった、というのを踏まえると、もっと長い年月使われているインパルスだ。いい加減、買い替える時期なのはわかっている。それでも、思い入れがあるものだから手放せずにいるんだ、なんて話をしていた。
 どう考えたって、キスする空気など、流れていない。
「……なにしてんの」
「ッ!」
 背後から掛けられた声に、バッと身を引く。合わせて振り返れば、げんなりと顔を顰めた同僚がいた。右手の指にペットボトルを二本挟めている。この時間、他に客はいない、水でも飲みながらやれば、なんて顔に書いてあった。
「ん、サービス」
「お、ワ、さんきゅ」
 しかし、ペットボトルはオレではなく三ツ谷に差し出される。じゃあ、もう一本を渡されるのかと思えば、そういうわけでもなく、イヌピーはパキッとキャップを捻り、持ってきた水を飲み下し始めた。
「オレのは」
「そういう関係ならシェアして、どーぞ」
「まてまてまて、オレとドラケン、そういうんじゃないから、てかナニ、なんで、なにしてんの、なにしてくれてんの?」
 なあ。隣から、普段よりも早口気味に捲し立てられる。この口調のときの三ツ谷は、大抵ニコニコと笑顔を浮かべている。笑いながら、煽ってくるのだ。きっと今もそういう顔をしているんだろう。想像がつく。
 やっちまった。一抹の後悔を携えながら、目線だけ隣に向けた。
「ウワ」
 つい、声が零れる。
 視界に入り込んだ顔は、予想に反して笑ってなどいなかった。ほとんど無表情。誰と話すわけでもなく、ヘッドホンを付けて音楽を聴いているときによく浮かべている表情だ。
「ウワって言いてえのはこっちだっての」
「あー、や、つい」
「つい?」
 まずい、何を言っても墓穴を掘ってしまいそう。何も企みはないのに、掘る墓穴とは。日本語って面倒臭ぇな。
「……ドラケンってそういうとこあるよな」
「なに、こいつ前科あんの?」
「結構ある。客の彼女がつまんなさそーにしてっと相手してやってるし。それだけなら良いんだけど、惚れられて彼女面されて、営業妨害まがいなことされたことも、まあ」
「あれオレが悪いのか?」
「思わせぶりなこと言ってっからだよ」
 そんなこと、言った覚えはない。しかし、現場に居合わせてもいない三ツ谷がやけに納得した顔で「あー」と呟いた。何が「あー」だ。何が「なるほどな」だ。オマエは見てねえだろうが。喉元から文句が込み上げてくる。
「……なんで訳知り顔で納得してンだよ」
「えー? ほら、ドラケンって女の子の話聞くの、上手いじゃん」
「そうかあ?」
「そうだよ。うちのルナマナもドラケンに話聞いてもらうの好きだし。うーん、なんだろうな、実家のせい?」
 小首を傾げるなんてあざとい動作をする三ツ谷に、最近顔を合わせた嬢が重なった。最近あの家は出たものの、正道さんが後見人というのもあって、ちょくちょくヘルスに顔を出している。あの嬢は確か、来て三か月かそこらだったか。オレと入れ違いだったはずなのに、やけに話しかけられるから顔を覚えてしまった。
 ガキの頃は、どいつも鬱陶しいくらいに絡んできたっけな。おかげで、どう話を聞けば機嫌を損ねないのか、刷り込まれてしまった。仕方なく身につけたことではあったが、この聞き方は案外今も役に立っている。……イヌピーのいうように、厄介な方向に転がることもあるが。
「三ツ谷で良かったと思えよ」
「おー……?」
「いや、されたオレは全然良くねえんだけど」
「少なくとも営業妨害はしないだろ」
 これが女相手だったらどうなっていたか。いっそう顔を顰めながらイヌピーは水を飲む。もうボトルに半分しか残っていない。がぶがぶと飲みやがって。見ているとこっちも喉が渇いてくる。
「先、飲む?」
 と、三ツ谷が水のボトルを差し出してきた。蓋は開いてもいない。表面ははやくも汗をかいていた。お言葉に甘えて、と受け取りたいところだが、この汚れた手で掴むのもいかがなものか。一旦手を拭わなくては。
「いい、手ぇ汚れっし」
「あー、ね」
「そもそも三ツ谷は客なんだから、ドラケンが先飲んだらだめじゃね」
「既にぐびぐび飲んでる奴に言われたかねーよ!」
「オレ今休憩中だし」
 ああ言えばこう言う。抜けているようで、イヌピーは何かと一枚上手だ。少しだけ憎くなる。それに助けられている部分もあるから、少しだけ。
 くそ。少量に見合う声量で吐き捨てると、くすくすという笑い声が聞こえる。それから、ペットボトルの蓋を開ける小気味の良い音。目線だけそっちに向けると、ボトルの白い口が三ツ谷の唇に触れたところだった。唇をわずかに沈ませながら、ボトルを傾けている。うっすらと開いた唇に、水が、流れ込んだ。
 ちゃぷん、水の音が、耳に届く。そんな音、聞こえるとは思わない。だが、確かに、聞こえた。今、鼓膜を震わせているのは、事務所のほうから聞こえる電話の着信音なのに。
 水の音と、電子音。それらが頭をぐらぐら揺らす。
「はいはーい」
 やる気のなさそうなイヌピーの声。取ってもない電話に返事をする必要とは。いつも思う疑問が、今回も浮かぶ。だが、声にするには至らず、霧散していった。
 揺れる思考は、なおも三ツ谷の口元に引き寄せられている。柔らかそうだな。そう? いや、その感触を、オレはもう知っている。柔らかかった。温度はほとんど感じなかったけれど、今は水に濡れているからひんやりとしているかもしれない。
 んく、んく、と喉が動くのに合わせて、ボトルの中身は少しずつ減っていく。とはいえ、イヌピーが飲み下したような性急さはない。なんとなく、口にして、ゆっくりと、体に染み渡らせている。そんな、飲み方。
 じ、っと三ツ谷を見つめつつ、工具箱の傍においたタオルを手繰り寄せた。それから手先の汚れを、擦るようにして拭う。完全に綺麗にはならない。だが、まあ、ペットボトルを掴むくらいなら、許される。その程度の、汚れ。
「ん、ふふ、あのさあ、ドラケン」
「あ?」
 ようやく三ツ谷はペットボトルから口を離した。途端、噴き出すように笑い出す。下唇には、うっすらと水の膜が張っていた。が、すぐに手の甲で拭われてしまう。
「見すぎ。なに、そんな喉渇いてた?」
「……まあ、たぶん」
「たぶんってなんだよ」
 相変わらず笑みを携えたまま、三ツ谷はボトルの蓋を閉めた。自分と違って、その手指は綺麗だ。単純に汚れていない、というのもある。それから、昔あった拳タコがなくなっている、という意味でも、綺麗。今はバイクに乗る頻度も多くなく、乗るとしたらグローブもつけると言っていた。だからか、あまり、日焼けもしていない。
「はい、どーぞ」
 この手には、さぞ指輪が映えることだろう。
 過ると同時に、差し出されたボトル、ではなく、その手首を掴んでいた。
「え」
 拭い切れなかったべたつきが、三ツ谷の肌を擦った。折角綺麗なのに、汚しちまったな。そう思いながら、腕を引っ張る。こちらへと、引き寄せる。すんなりと三ツ谷の体はこちらに倒れてきた。しゃがんでいた脚は崩れ、床に膝をつく。
「ぇ」
 か細い声ごと、飲み込んだ。噛みついた先の唇は、数分前よりも潤いがあって、少しだけ冷たかった。しかし、一つ舐めてしまえば体温と同化する。
「っは」
「な、なん、は?」
 息継ぎがてら一度離れると、はくはくと金魚のように口を動かす三ツ谷が目に入った。おかげで歯列の白と口内の赤がよく見える。顔に映っているのは、呆然。混乱。それから困惑。赤面はしてくれない。
 しろよ。無性に気に食わなくなって、濡れた唇に身を寄せた。
「んぅっ」
 一回目は触れるだけ。二回目は上辺を舐めて終わり。じゃあ、三回目は? 言うまでもない。
 半開きになっていたのもあって、簡単に舌は口内に入り込んだ。奥で縮こまったそれを舐るように引きずり出す。逃げられるかと思ったが、存外素直に絡んできた。上から押しつける姿勢になったのもあって、滲む唾液はほとんど三ツ谷のナカに流れていく。
 くちゅ、水音が、鳴る。今度は、はっきりと聞こえた。
「~~ッ!」
「ゥグ!?」
 ほとんど同時に、ドンっと強く胸を叩かれた。殴られたと言っても過言ではない。久々に浴びる強さの衝撃に、唇が離れてしまう。ああ、クソ、もっとしてたかったのに。
「なに、すンっ、だよ」
「……つい」
「そうやって客の彼女寝取ったって? こんなことして口説いてたんなら、勘違いもしちまうだろ」
 多少息は上がっているものの、三ツ谷の顔に恥じらいはない。それどころか、滔々と諫めてくる。まあ、内容は的外れなのだが。
「寝取っても口説いてもねーよ」
「どうだか」
「マジだって、つかンなことしたら商売上がったりだろうが」
 あくまでオレは、客の話を聞いているだけ。興味がないのにつれてこられたなら、少しでも面白いと思ってもらえるよう、なんなら将来的に客になってもらえるように緩く話を振っているにすぎない。実際、それで単車購入に結び付いた人もいる。この間、カレシと二人でツーリングに行くと言っていた。で、逆に、結びつかないどころか、無遠慮にかつ無益に付きまとわれたこともある。寝取っても、口説いても、いない。
「第一、こんな衝動的にキスしたの、」
 そこまで口走って、ふと、思い返す。これまで、空気も何も読まずにキスをしたこと、あったろうか。あの事件のあと、誰とも付き合わなかったわけじゃない。長続きこそしなかったものの、キスも、セックスも、人並みには経験している。そのそれなりの経験の中で、こんなこと、あったろうか。
 いや、ない。
 なんせ、オレは、あの場所での生活で、散々空気を読め・読み違えるなと刷り込まれたものだから。
 にもかかわらず、三ツ谷にキスをした。つい・とっさに・なんとなく、してしまった。
「……オマエが、初めてだな?」
「は」
 バイクの話をする三ツ谷が、やけに愛おしく見えた。いい加減、寿命なのはわかっている。もう生産終了してしまったから、早かれ遅かれ乗れなくなる日はやってくることだって、もちろんそう。だとしても、乗れるうちは手放したくない。大切にしたい。
「んだよ、その、オレだからした、みたいな」
 好きなものを、じ、と眺める目に惹かれた。愛着を語る顔つきは、わずかに紅潮していて、その唇はきっと温かいのだろうと思った。
 こいつに愛されたら、どれほど幸せなんだろう。
 イヌピーに茶々を入れられたせいですっかり飛んでいたが、そういえば、そんなこと、考えたんだった。
―― 三ツ谷だから、したんだ」
 あれこれ考えながら発したわりに、言葉は滑らかに出てきた。
 さて、これは三ツ谷の求める答えになったろうか。なっていなかったとしても、これ以外の答えは導きだせない。だから、なんとしても納得してもらうしかないのだが。
 ふ、とすぐ下に目を向けた。オレの前にへたり込んでいる三ツ谷を、見やった。
「ぅ、え?」
 ああ、そうだ。そうやって、愛おしいものを見る顔で、オレのことも見てほしくなった。眼前にある三ツ谷は、やっと、頬を染めてオレを見上げている。
「いいよな」
 目が合った。
 その瞬間に、唇を貰っていた。