期待しないで待ってるよ
今日も東京は猛暑日らしい。店内BGM代わりに流していたラジオ曰く、危険な暑さだと。外出は控えろ、屋内でも冷房を適切に使え。水分補給をし、熱中症に気を付けろ。そう、言っていた。
「そっちどう?」
「もうすぐ終わるー」
額から汗が伝う。拭うより先に、顎からぽたりと落ちていった。この夏の暑さは異常だ。室内でもまあ暑い。ウチの店は工房も屋内だから、冷房が効いているほう。……それでも、暑いものは、暑い。
ちら、と目線を事務机のほうに向けると、眉間に皺を寄せたイヌピーが紙の束を片手にパソコンを操作していた。今日の事務処理はイヌピーの担当。オレも、向こうも、やらなくていいならやりたくない。だからこそ、交代で処理しているのだが、……今日ばかりは、事務処理のほうが楽だったかもしれない。
「あー……」
吐き出した息は、やたらと熱を持っていた。暑い。とにかく、暑い。いくら拭いても汗が噴き出してくる。
かといって、今の作業を途中で投げ出す気にもならない。もう少し、あと少し。預かっているバイクに目線を戻して、手を動かした。
この暑さだ。夏バテ気味だとぼやいていたイヌピーに任せたら、ぶっ倒れていたかもしれない。明日も、事務処理は頼んでオレがメンテナンスを担当しよう。
……断じて、事務処理から逃れたいわけじゃない。
「っし、終わった!」
エンジンが問題なくかかることを確認し、座っていた小型コンテナから腰を持ち上げる。ずっと曲げていたからか、膝の関節がじんわりと重い。足首から先の感覚も、なんとなく鈍かった。
「おー、おつか……」
酷く遠いところから、イヌピーの声がする。見る限りは、数メートルしか離れていないというのに。
首を傾げると、作業着が身体に纏わりついてきた。汗でくっつくなんてもんじゃない。縄で縛られているかのよう。鬱陶しいな、なんだこれ。違和感を拭おうと腕を持ち上げようにも、ついさっきまで問題なく動いていたソレはやたらと重い。一〇〇人ばかりをなぎ倒したときよりも、重たく感じる。
「ぁん、だ……、コ、れ」
心臓の音が、耳のすぐそばで聞こえた。その音がとにかくうるさくて、頭が痛くなってくる。一旦座るか? いや、この場に座ったら、立てなくなる。せめて、椅子らしい椅子に座らなくては。揺れる頭を抱えながら、応接用ソファのほうへと一歩踏み出した。
すると、世界が、沈む。床って、こんなに柔らかかったっけ。
「ッドラケン!」
傾く視界の中、焦った顔をしたイヌピーが見えた。なんて顔してんだよ。おい、今放り投げたの、この間作った見積書じゃねえか? オレじゃなく、そっちに手を伸ばせよ。
目の前で起きる光景に呆れているうちに、瞼が落ちていった。
その瞬きの後、何故か眼前に三ツ谷がいた。
「は?」
「あ、起きた」
イヌピーは。見積書は。目を白黒させるオレに、三ツ谷はそよそよと風を送ってくる。よく見れば、その片手には団扇が握られていた。
「なん……、は?」
「体起こせる? 無理なら良いけど」
混乱しながらも、ソファに手をついた。ぐ、と力を込めるが、やけに体が重い。頭は揺れるし、胸焼けもする。汗で束になった前髪が、だらんと垂れてきた。背中を支えてもらわなかったら、真っ当に起き上がれなかったかもしれない。
「じゃあ次これ飲んで。ちょっとずつな、一気に飲むなよ」
「……みず?」
「まあ、そう」
差し出されるままにペットボトルを掴んだ。なんてことない、よくある五〇〇ミリのボトル。これが重いわけがない。そんなはず、ない、のに、掴んだ手ががくがくと震えた。
すぐそばから、「あーあー」なんて声がする。かと思うと、三ツ谷の手がボトルを掴むオレの手に重ねられた。さらには小気味いい音を響かせてキャップを開けてくれる。
咄嗟に隣を見やるも、そこにいるのは平常運転の顔をした三ツ谷。からかっている様子はない。
「もしかして吐きそう?」
「だ、いじょう、ぶ」
「良かった。これは? 飲める?」
「ん」
改めて背中やら腕やらを支えられながら、どうにかペットボトルを口元に引き寄せる。つん、とプラスチックに口が触れ、中身が舌に乗った。冷たくはない。生温い。いうなれば常温。
そして、甘い。
「……ぽかり?」
「……甘いの?」
「ん」
「……はー、もうほんと、オマエ、」
ちび、ちび、と甘いそれを、言われたとおり少しずつ飲んでいく。隣に座る三ツ谷から呆れた声がするが、気にする余裕はなかった。この、与えられた清涼飲料水を飲まねばならない。その一心。
「今、どれだけ頭働いてっかわかんねーけど、さ」
「ん?」
「それ、経口補水液」
「けーこー……?」
「健康だったらクッソ不味いはずなんだよ、それ」
ぼんやりと三ツ谷を眺めながら、いくらか中身の減ったボトルを下ろす。とりあえず足の間に挟めると、すかさず三ツ谷はキャップを閉めてくれた。
「ったく、ヒナちゃんサマサマ、色々教えてもらえて良かったワ」
そのうちに、再び団扇で緩く風を送ってくれる。あわせて、結んでいる髪の束を引っ張られた。ずるり、ヘアゴムが抜かれる。手櫛を通されると汗ばんだ髪がはらはらと解けていった。そういえば、さっきまで寝転んでいたんだった。ぐしゃぐしゃに崩れていたのかもしれない。
緩慢な動きでボトルの蓋を開け、とろとろと不味いはずの水を口に含んだ。少しずつ、一気には流し込まないように、気を付けながら、体に水分を足していく。
なんとなく、状況が掴めてきた。
「三ツ谷ぁ」
「んー?」
「オレ、もしかして、倒れた?」
「もしかしなくても倒れたよ」
「うーわ、マジ?」
まさか自分が倒れるなんて。それも、この状況から察するに熱中症だ。気を付けろというニュースを聞いていたのに、この様。なんたる失態。室内だし、冷房は使っているし、大丈夫だろう。そう、慢心した。やってしまった。
とても不味いとは思えない経口補水液を飲みながら、ちらりと三ツ谷を見やる。三ツ谷、だ。どう見ても、三ツ谷。イヌピーではない。
「イヌピーは」
「今、店閉めてるよ」
「……今、何時」
「六時、あー二十分」
「オレ、倒れたの、何時」
「三時過ぎ? じゃねえかな、連絡きたのそれくらいだし」
連絡、とは。……考えるまでもない、イヌピーが呼んだに決まっている。自分だけでは、介抱しきれないと思ったのだろう。それで、三ツ谷を、呼んだ。悪くない人選だ。仮に倒れたのがイヌピーで、看病するのがオレだったとしても、三ツ谷をヘルプに呼ぶ。
や、タケミっち呼びつけるかもしれねーわ。面倒見のいい嫁がいるんだし、適任な気がする。
「……さっき、ヒナちゃんサマサマ、つったか?」
「ん? ああ、イヌピーさ、タケミっちにもヘルプしてさ。で、ちょうど、ヒナちゃんも一緒いたってんで、色々診てくれたの。すげーよなあ、学校の先生って。熱中症対応も完璧」
「あー」
「今、二人で買い出し行ってくれてる。戻ってきたらお礼言えよ」
「おー……」
そこで、はと、気がついた。
何をしたらいいか、指示をしてくれたのは彼女だとしても、今隣にいるのは、三ツ谷。ぱたぱたと団扇で風を送ってくれているし、水一つ飲むのも手伝ってくれた。忙しいだろうに、わざわざ、看病しにくるとは。
「オマエ、も、ありがとな」
「いいよこれくらい」
「ほんと、助かった」
「なんだよ、急に素直になっちゃって」
「本心だって」
「えー? あー、そう。……どう、いたしまして」
そう言いながら、困ったように三ツ谷ははにかんだ。三ツ谷の、よくする笑い方。珍しくもなんともない。
―― ほのかに、目尻が赤らんでいるのを、除いて。
ど、と、心臓が撥ねる。顔が熱くなってくる。熱中症を侮っていたかもしれない。少し寝て、水分補給をした程度で回復するわけがない。もう少し、休もう。そう、しよう。
「あの、さ」
「あ、横んなる? 膝枕いる?」
「は」
ぽん、と三ツ谷は自身の太腿を叩いて見せた。咄嗟にそこを見下ろして、三ツ谷の顔に戻る。と、視界の端でまたポンと脚を叩くのが見えた。
「さっきは割と寝心地良さそうに見えたけど」
「さ、っき」
「うん」
まともに動くようになってきた思考が、ぐるりと回る。さっき、さっき。言われるままに、その「さっき」に意識を向ける。
「……」
いつだ?
「…………」
いつ、オレはこいつの膝に頭を預けていた。
「…………~~ッ!」
すぐに、心当たりは見つかった。
目覚めた瞬間。眼前に三ツ谷の顔があった。あのとき、オレの頭は、こいつの膝の上に乗っていたのだ。
気付きたくなかった。しかし、気付いてしまった。ばちん、と、左手で自分の顔を覆った。傍らにいる三ツ谷が、ふ、と吐息だけで笑う。笑ってんじゃねえ。言い返そうにも、この火照った顔じゃ、何を言っても笑いを煽ってしまう。
「いらない?」
「……いる」
「ふっふふ、いるんだ」
「いる……!」
「必死かよ、良いよ。ほらどーぞ」
半ば自棄になりつつ、上体を倒した。後頭部が、しっかりとした太腿の上に乗る。見上げた先には、満更でもない、なんて顔をした三ツ谷がいた。
なにか、反撃できないものか。一矢報いることはできないか。頭を働かせようにも、熱が籠った思考は良い案を思いついてはくれない。それどころか、全身の怠さのせいで、瞼がとろとろと落ちていく。
「……起きたら覚えとけよ」
どうにか言い捨てると、やはり楽しそうな笑みが降ってきた。
「期待しないで待ってるよ」