真顔で言うな、ばか
呼び鈴の音に、玄関扉を開ける。と、なぜか馴染みのない匂いがした。
すん、と確かめるように鼻を鳴らすと、その香りはいっそう強くなる。なんだ、これは。漂ってくる方向、というか、すぐ正面、おおよそ十五センチ下に顔を向けると、ちょうどそいつもオレを見上げたところだった。
「なに」
「なにって、来いって言ったのドラケンじゃん」
「そうだけど。……それじゃなく、今日、香水かなんかつけてる?」
「ぇあ。ぁあ~……」
三ツ谷のことだ。尋ねれば、そう、とか、違う、とか。あるいは、どこどこのブランドの、だとか、言うものだと思った。
しかし、眼下にいるそいつは「しまった」という顔をして言葉を濁らせる。さらには、目線がちゃぷちゃぷ泳ぎ出した。右に向かい、斜めに下がって、今度は左に、また右に。
顔を背けられたなと気付いた頃、見えていた首筋は右手で覆われてしまっていた。指先は耳の後ろを引っ掻いている。……匂いの源は、きっとそこなのだろう。
「悪い、今日職場からそのまま来たから」
視線を合わせないまま、三ツ谷は言う。それも、後ろめたそうに。
一体、何を気にしているのだろう。今時、香水を使うのなんて珍しくもない。まして、三ツ谷の職業はファッションデザイナー。香水を使っていない奴のほうが珍しいのでは。……まあ、こいつのいる業界に詳しいわけじゃない、ほとんどオレの想像に過ぎないのだが。
なぜ、三ツ谷はこんな顔をしている? 脳内に疑問符を浮かべているうちに、首を傾げてしまった。
「で?」
「ごめん」
「や、謝ってほしいとかじゃなく」
「え?」
ちがうの。
やっと目が合った顔には、ひらがな四文字が書いてあった。ちげーよ。視線でそう返すと、ぱち、ぱちと目を瞬かせる。その度に、長い睫毛が影の線を描いた。
「だって、嫌なんだろ」
「は、なにが?」
「前言ってたじゃん」
「だから、何を」
じ、と見つめられたまま、三ツ谷の薄い唇が震える。その度に、ぽろぽろと声が発せられた。しかし、内容は要領を得ない。言葉が、足りない。何が、って聞いてんだろうが。言わんとすることを汲み取れず、つい、語気が強くなってしまう。
これが客相手だったら、秒で萎縮して逃げられるところだが、相手は三ツ谷。オレの物言いが雑になろうと、荒れようと、ビビる質じゃない。
案の定、怯えた顔になることなく、呆けた面を晒したまま息を吸った。
「香水の匂いのする男、嫌いって、……言ってなかったか?」
だから、会うときは香水つけないようにしていたし、つけた日に会うことになったら、一旦家に帰って支度し直してから出向いていた、と。
まめか。何かと細やかな気遣いをして見せる男だとは思っていたが、そんなところまで気を回していたとは。感心を通り越して、呆れが込み上げてくる。
「おま、……よく覚えてンな」
「覚えてるっつーか、オレら何年の付き合いだと思ってんだよ。オマエが顔顰めるの見てたら、フツーに覚えるわ」
「あー」
言われてみれば、確かにそういう心当たりは、ある。やたらと上等なスーツを着たサラリーマンだとか、仕事上がりのホストとか、そういう連中とすれ違ったあとに「臭ぇ」と吐き捨てた回数は数えきれない。
とはいえ、嗅覚が敏感というわけでもないのだ。喧嘩のあとの血と汗に塗れた臭いや、バイクいじりにつきものたるオイルの臭い。育った家の、性で満ちたソレだって平気なのだから。さらに言えば、ヘルスに勤めていた女たちが纏う香水の匂いも、別に苦手ではない。好きでもないが。
つまるところ、オレが嫌いなモノは、三ツ谷の言う〝香水の匂いのする男〟と、少々異なる。
「オレが嫌いなのは、テメェに合わねえ香水をガバガバ使ってる野郎のことな」
「うん、だから」
「で、オマエのそれは」
「うん?」
「ヨユーで許容範囲内。嫌じゃねーよ」
だから、自分の纏っている匂いを気にして、困ったような顔をするな。
淡い色に染まった髪を、ぐしゃりと撫でた。短髪だったときが懐かしいくらい、その髪は伸びている。指を潜らせると、頭蓋の丸い形がよくわかった。その形を確かめながら指先を下ろしていく。龍が眠っている側頭部を通り、指先は耳の裏へ。すぐそばにある三ツ谷の右手。もうすっかり喧嘩の名残のない手を掴もうと指を開くと、先に掴まれてしまった。
「……そういう撫で方すんな、まだここ、外」
「じゃ、入って」
「ワ、」
掴まれた手を逆に握り返して、ぐっと腕を引く。ついでにもう一方の腕を背中に回せば、倒れるように三ツ谷は玄関に入ってきた。
腕の中に閉じ込めると同時に、大袈裟な音を立てて鉄製の扉が閉まる。電気を点けるのを不精したせいもあって、玄関の狭い空間は薄暗かった。目を閉じてしまえば、おおよそ暗闇と変わらない。
すん、鼻を鳴らすと、爽やかさの中に芯のある甘さが染み入ってきた。嗅ぎ慣れない匂い。かといって、不快なものではない。こいつ自身の匂いととろりと混ざって、無性に好ましいものに思えてくる。
「あんま嗅ぐなよ」
「……」
「なんか言え」
「んー……」
三ツ谷の手が、オレの背中を叩く。今のところは、たし、たしん、と軽く済んでいるが、このままスルーしていたらバシバシと強く叩かれることだろう。……いや、家の中に引きずり込んでしまったのだから、そこまで抵抗されることはないか?
ずり、と顔の向きを変えると、ヘの字になった唇が見えた。近い。ちら、と見上げた眉間には皺が寄っている。けれど、眦は下がったまま。機嫌を損ねているというより、これは、あれだ。
照れているときの、顔。
「三ツ谷、」
「なに」
「キスしてい?」
この顔で、駄目とは返されないだろう。
高を括って唇に噛みつくと、ばしんと一発、背中を叩かれた。だが、二発目は襲ってこない。代わりに、引っかけていたカーディガンが、なんとなく引っ張られる感触がした。掴まれている。きゅ、と、三ツ谷の指先がオレの背中を掴んでいる。
重ねたままの唇が自然と緩んだ。
「ん、っは、……のさあ、そっちから聞いといて、返事聞く前にするのヤメロよ」
「つい」
「ぅム」
軽く返してからもう一度薄いそこを啄む。律儀に瞼を閉じてくれる健気さに、いっそう顔が緩んでしまう。
熱を持ち始めた吐息からは、深く口付けられたいなんて欲が見える。それに、纏っている香りのせいだろうか、やけに甘えられているかのような心地にもなる。普段、石鹸と柔軟剤の匂いしかしない奴だからこそ、こんなにもクるんだろう。
気付くと、また首筋に顔を埋めてしまっていた。
「だから、オマエ、ほんと嗅ぎすぎ」
「んー?」
「ヤじゃねーのはわかったけど、臭くねーの?」
「全然」
「……そりゃどーも」
「むしろ」
「むしろ?」
一度言葉を止めて、香りのする首筋に唇を寄せた。くっついていたせいか、ほんのりと皮膚が汗ばみ始めていた。おかげで、匂いが際立つ。香水に由来する甘さも、こいつ自身の、そもそもオレが気に入っている匂いも。
堪らねえな。
「そそられる」
あとで苦言を呈されるのを承知の上で、耳の後ろに吸い付いた。たったそれだけ。慣れた行為であるだろうに、三ツ谷はぴくんと体を震わせる。薄暗いせいで、痕がついたかは定かじゃない。だが、きっと、小さくて赤い花が咲いた事だろう。オレもの。オレの、男。
「だ、ったらさあ」
同じところに何度も口付けていると、それまでよりも強い力で服を引っ張られた。ざっくりと編まれたカーディガンが、みょんと伸びる。珍しい、こいつが服の形を極端に崩すようなことをするなんて。自分のはもちろん、他人の服も、丁寧に扱うのが常なのに。
見上げるようにして三ツ谷の顔を覗き込むと、―― すっかり上気していた。
「ベッド、行こ」
「随分と性急じゃねーか」
「そのつもりでオレんこと呼んだんだろ」
「ヤるためだけじゃねーし」
「じゃあ他に何すんだよ」
「……いちゃいちゃ?」
「っはは、オマエの口から聞く言葉じゃねーワ、それ」
「あんだと」
憎まれ口を叩くのはどの口だ。くすぐったそうに笑う三ツ谷の唇に噛みつくと、ぱしぱしと背中を叩かれる。はいはい、玄関先でいつまでも焦らすなって言うんだろ。わざとらしくリップ音を立てて口付けを解くと、いっそう蕩けた瞳が目に入る。
いっそこの場で抱いてやろうか。三ツ谷が絶対に怒るであろう暴挙を閃くが、ココでそんなことをやっては廊下に聞こえてしまう。隣人の誰にも、こいつの甘い声を聞かせたくない。なんなら、この甘い香りも自分が独占してしまいたいくらいなのだが。
深く、息を吐き出してから、美味そうな体を抱き上げた。
ドラケン、香水変えた? 翌朝、出勤すると、開口一番に同僚に首を傾げられた。